2008-12-29

ラートプラーオ101にて

12月27日(土)はラートプラーオ・ソイ101の市場での宴会に参加。

ラートプラーオ101と言えばいわゆるイサーンの田舎から来た出稼ぎ者達が多く住む場所として有名で、「サオ・ラートプラオ」の愛称で知られるルークトゥン・モーラムのヒット曲の歌詞にも出てきたりする一種の名所なんですが、自分の知り合いも何人か住んでたりして結構馴染みがあります。

ここに新たに市場が開かれるということでその宴会の為の催し物のようです。写真は今回の楽団リーダーのN先生。見た通り、飾りも看板さえも無い舞台です。要するにただの宴会場でして、我々は言わば宴会バンドの役割のようです。

客席もこんな感じ。味も素っ気もありません。 一応ポンランが有って舞踊チーム付きですが、内容は歌謡曲がほとんどで時々ポンラン楽団になるという感じ。自分が客ならあまり興味を引かないから「10分見て帰るか素通りする」と言った感じです(笑)。この辺、最初に見分けられる特徴としては、舞台にドラムセットが有ってクローンヤーオ(胴長太鼓)が用意してない所、とかでしょうか。こういう場合は風土音楽度がぐっと下がると思います。

途中なんか出てきました。いわゆるコヨーテですね。腰のくねくね度が凄いです。そのままケーンを持たせても様になりそうな程です。どの人も普通にセクシーな女性だと自分は思ってたんですが、後で聞いたら実は全員おかまさんだそうで、いやーびっくりしました。この日はこのコヨーテ軍団に二度ほど舞台を占領されました。見物人が舞台前にかぶりついて写真を撮ってるところなんか、世界共通の現象でしょうか。


舞台裏の宴会場。こういう催しは大体長時間になります。客席からの飛び入り歌手とかが次から次へと出てきてなかなか終わりません。終わろうとすると「やめるなー」と怒られたりして。でもまぁ気軽だし(適当とも言う)、自分達も飲み食いできて良いんですけどね。この日はちょっと食べ過ぎましたが。

おまけ: コヨーテのアップ。

自分には女性にしか見えませんでしたが、おかまさんだそうです。いやー、たいしたもんですね(何が)。

2008-12-22

ポンランの楽譜

ポンラン楽団でよく演奏される曲というのが有りまして、それらはそれぞれの土地で発生した歌や楽器の旋律が元になっていて、曲のほとんどは作者不詳だったりするんですが、言わばポンラン・スタンダード曲というものです。例えば「ラーイポンラン」とか、「トァーイコーン」とかのそれぞれの曲です。

そして現在楽団が舞台で実際に演奏する時には基本的にはいくつかの曲と舞踊とが組み合わされた形になるんですが、それらのほとんどは、様式や大まかな構成まで決まっているもので、言わばポンラン・スタンダード・セットと言った感じのものです。例えば「プータイ3種族」とか、「ソァーン・ポンラン」とか。こちらの方は誰が構成したのかとかが分っている物が多いようです。作者のほとんどはナータシン(民族芸能学校)の監督や音楽家のようですね。

使われる楽器自体の基本は構造が単純な分、基本は習得しやすいと思います。ほとんど全音階しか無いですし、ピンなんかギターが弾ける人なら10分で慣れちゃうでしょう。厄介なのはそのスタンダード曲やセットの構成を覚える事なんじゃないかと思います。

この辺は、子供達の練習方としては、ひたすら「聞いて、やって、慣れる」ですね。何年かやってれば皆うまくなります。一方大人になってからやり始める場合は、やはり楽譜に頼るのが良いということで、今まで自分がやった物、主にポンラン・スタンダード曲やセットはほとんどタイ式楽譜で書き溜めておきました。

それで今回はそのタイ式楽譜をウェブ・アプリケーションにしてみました。

scorethai

Google App Engine (GAE) というサービスを使っています。GAEは自前のサーバを持たなくても自由にウェブアプリが書けるものです。まぁ無料な分、いろいろ制限もあるんですが。あとウェブアプリを書くのが初めてでして、いろいろ手抜きもありますが、その辺は徐々に直して行こうかと思います。

あと、変な検索機能も付けてみました。

曲名に「โปง」(ポンランのポンの部分)、音の並びに「ลดรมรด」(ラドレミレド)、カテゴリーに「ponglang」(今はこれしか有りません)、で検索すると。
 
該当する曲と一致する部分を強調したリストが出ます。音の並びは、重複しない音の並びが対象です。

一応 googleアカウントでログインすれば誰でも楽譜を追加できるようになっていますが、マイナー分野すぎてそういう人はほとんど居ないですかね。もう一つの問題は、タイ人の音楽仲間にPCを使う人がほとんど居ないことですねぇ(笑)。

2008-12-06

国王誕生日

12月5日(金)は国王の誕生日という事で全国各地で催し物が行われていますが、もちろん文化センターでも行われました。

午前中、大ホールに到着した時はクラシック音楽をやってました。このホール、日本の援助で建てた物だと聞いていますが、あらためて見ると結構大きいですね。

午後は本日のメインであるラーマキエン劇(コーン)を舞台横から見学。タイの子供は国語の教科書で習うので、誰が何の役か見てすぐ判るようです。自分はちゃんと読んだ事も無いので説明されないと分りません。説明されても難しいんですが。隣にいた高校生の説明によると、写真は神々の召使として日頃苛められていた鬼が、指差しただけで相手をぶっ殺す神通力を得て神々に復讐する一節だと言ってましたが、ほんとうかな?

舞台横には仮面を奉った一室が有りました。ちょっと晒し首みたいで怖いですが、ワイクルーのお祈り用ですね。ラーマキエン劇はタイでは非常に重要なものとされてるようです。

一方子供楽団の楽屋は幼稚園状態でした。長時間待つといつもこのようになります。

ラーマキエンの衣装の一例。モデルは一応ポンランもやってる女子高生ですが、ちょっと顔が大きいので何だかひょうきんに見えます。

その後、舞台横で出番待ちをしていますが劇がなかなか終わらない。子供は台車で遊び始めました。収拾がつきません。

出番待ちのダンサーは、カメラを向けると反射的に微笑む所がさすがですね。舞台用メイクが濃いので、コンパクトカメラのフラッシュが反射して顔だけ浮き上がるようです。

やっと舞台に上がりました。しかし楽団用のスペースはステージ前の隅っこの一角で、これがものすごく狭い。ここにタイ式とイサーン式の2楽団が入っているのでかなり窮屈というか、ぎゅうぎゅうで座れません。

そんなわけで押し合いへし合いで舞台がよく見えないんですが、隙間からちょっとだけ見えました、このぐらい。

結局我々の演奏はバンファイとタイプーカオの2セットだけでした。

この日配られた記念品の本とCD。内容は全て、王室がその振興に力を注いだ伝統芸能や音楽に関する物ばかりです。この歌の本にはタイ語の歌を各地方毎の言葉に翻訳した物が有ったりするところが興味深いですね。後日読んでみようと思います。

2008-12-04

パトゥムタニー県にて

12月3日(水)、子供楽団はパトゥムタニー県での行事に参加。二日後の国王の誕生日の関連行事のようです。

バンコク近県なので夕方4時に機材を積んだピックアップで出発、5時過ぎにはクローンルアン郡の現地に到着。近県とは言え、だいぶ田舎ですね。

見渡す限り田んぼ地帯の中、広大な敷地に何故か巨大な図書館やらホールやらが立っています。写真左はその図書館。写真を取ろうとしたらバスから警官がうじゃうじゃと下りてきたので警官がいっぱい写っちゃいました。この日の警備に来たようです。右はスプリーム・アーティスト・ホール(ホー・アッカラ・シンラピン)。

そのアーチストホールの横に設けられた野外ステージ。国王誕生日の関連行事ということで、ステージには国王の写真と祭壇が設置してあります。

夜、催し物開始前に出演者全員で国王を称える儀式。ローソクを持って国王を称える文句を言ったり国王賛歌を歌ったりします。タイではどこでもお馴染みの光景ですね。

この日は意外と超有名な歌手がいっぱい出てきました。そもそもこの行事は王室からシンラピンヘンチャートの称号を受けた歌手達が国王を称える儀式、という趣向だったようで、我々子供楽団はその合間の余興だったようです。それでも4セット程演奏、ちょっとメンバーが少なくてしょぼかったかな。

出番が終わり、せっかくなので鑑賞。写真はシンラピンヘンチャートの歌手、トッサポンさんとそのコンビの人(名前忘れた)。このコンビ、TVではよく見ますが、いやーさすがに良い声ですね。堪能しました。といっても歌の内容はあまり分らないけど。いわゆるラムタットの系統でしょうか、物語を語るような感じで掛け合いで延々と歌う物です。

子供楽団のダンサーとポンラン担当の子。真中の太った子が現在メインでポンランを叩いてます。

5日の国王誕生日当日は文化センターで大々的にやるようですが、メインはラーマキエンで我々はたった1セットだけだとか。

2008-11-04

プレー県にて

11月1日(土)、子供楽団はタイ北部のプレー県へ。

ポンラン楽団とタイ式楽団が一緒で総勢50人以上、貸しきりバスに満杯で早朝の出発。ほぼ2時間毎に休憩が入るとはいえ、プレー県までは8時間以上です。

プレー県中心郡の宿泊地に到着、休憩後、各楽団分かれて別々のお寺へ。我々が行ったお寺は宿泊地から更に90kmも離れた場所のお寺でした。セッティング中はもう既にへろへろに疲れています。

 
お寺の境内でとりあえずご飯食べたら演奏。食事中の写真しか無いけど。ソァーン・サウィン、タイプーカオ等の定番舞踊とお笑いS先生の歌を5セットぐらいで約1時間半でした。本当はお笑いS先生との絡みで北部風の歌をやる予定だったんですが、直前に打ち合わせた部分がすっかり頭から抜け落ちてしまって思い出せず、パスしちゃいました。恥じ入ります。

写真はこの日行われた、女の子達だけで行われる儀式。大鍋を囲んで皆でお菓子を作ります。

この日は北部一帯が大雨でしたが、舞台と客席はテントが設置してあったので助かりました。演奏が終わったらまた食事をご馳走になって、90km離れた宿泊地へ戻ってビール飲んで就寝。


翌日は経由地のピサヌロークの有名な寺で観光。

ここはピサヌロークを通る時は必ず寄らないといけないらしいですね。随分前ですが前回来た時もやはり寄りました。写真左はタイで最も美しいと言われる仏像、右は歴史映画で有名なナレースワン王の像。

観光もしたので10時間ぐらい掛けてバンコクへ。いやー恐ろしく遠いです。これだけの行程をかけて行ったのに演奏がたった一時間半って、もったいない気もします。とはいえ、一日目の大雨は思ったより酷かったようで、帰宅後にプレー県での洪水や列車脱線のニュースを見ました。その割には滞りなく演奏できたということで、まぁ良かったのかも。

お土産のムーヨーと北部名物ナムプリックヌム。帰宅後さっそくもち米とビールで。うちの北部式カントーク用テーブルにマッチします。ナムプリックヌムはナムプリックの一種ですが、プリックヌムはまだ熟していない特に辛い小さい唐辛子の事で、これがほぼ100%の食べ物ですからもう強烈に辛い。食べると汗がだらだらと出続けて止まりません。そういうわけで、ビールがうまいです。

2008-09-29

「イサーン」という語

我々日本人もタイ人も、一般的にタイ東北地方のことをイサーン(อีสาน/อิสาน)、そこに住む人をイサーン人(คนอีสาน)、その地方の料理をイサーン料理(อาหารอีสาน)等と呼んでいます。この「イサーン」という語、自分はイサーン音楽をやっているので慣れ親しんだ語なんですが、時々ふと疑問に思ったことがあります。「イサーン」という語はどこから来たのか。それを説明する丁度良いページが有ったのでメモしておきます。

「ラーオという語とイサーンという語は、同じなのか違うのか --- オート」
この著者はタイ-ラーオ族(ชาติพันธุ์ไท-ลาว)の血筋のようです。メコン川の左(ラオス側)から移住してきた人々とその子孫にはいろんな民族が居て一纏めにはできないにしても、書かれている事はどの民族にもある程度は当てはまるんじゃないかと思います。

これによると、イサーン地方に住むタイ-ラーオ族の大多数が自らを「イサーン人」と呼びますが、一方この著者のように自らを「ラーオ人」と呼ぶ人も居ます。これには理由があって、自らの人種(血筋)としての認識と、タイ王国の国民としての認識とのどちらに重きをおくかで呼び方が違う、と述べています。
  • 人種としての認識:ラーオ人(คนลาว)
  • タイ王国の土地に住む人としての認識:イサーン人(คนอีสาน)
(イサーンに住む人自身が上のどちらに重きをおくかで、自らをどう呼ぶか変わる。)
この著者は、「現代のタイ-ラーオ族の民族意識は非常に薄い。それはサヤーム国の統治政策がもたらした結果だ。」と書いています。その経緯は以下の通り。
  • タイ-ラーオ族がメコン川流域に多く移住してきた仏暦23-24世紀、その統治システムはラーンサーン王国(ล้านช้าง)のような方式(つまりラーオ式)だった。
  • サヤーム国がメコン川両岸まで支配し始めた頃、サヤームの人々もまたこの民族のことを「ラーオ人」と呼んでいた。
  • やがて世界的な植民地主義の影響でサヤーム国の統治が難しくなる。
仏暦2433年、サヤームは統治方式を一新。ラーオ側の地方都市とクメール側の森林地帯を合わせて4つの郡に分ける。
  1. 東部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออก)
  2. 東北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออกเฉียงเหนือ)
  3. 北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายเหนือ)
  4. 中部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายกลาง)
この時、「東北部」という語が初めて使われたが、それは現在のタイ東北地方の一部を指すだけだった。

その後、更に行政区が一新される。
  • ラーオガーオ地方(มณฑลลาวกาว )
  • ラーオ中部地方(มณฑลลาวกลาง)
  • ラーオプワン地方(มณฑลลาวพวน)
仏暦2442年、この地方の人々をラーオと呼ぶのは、この時の国の情勢においては相応しくない、という統治上の理由により、ラーオという語の使用を避けるように変更する。
  • ラーオ中部地方は、ナコンラーチャシーマー(มณฑลนครราชสีมา)に変更。
  • ラーオプワン地方は、北部地方(มณฑลฝ่ายเหนือ)に、更に2443年からウドーン地方(มณฑลอุดร)に変更。
  • ラーオガーオ地方は、東北地方(มณฑลตะวันออกเฉียงเหนือ)に、更に2443年からイサーン地方(มณฑลอิสาน)に変更。
ここでサヤーム王朝で初めてイサーンという語が使われたのが見える(西暦1900年頃)。王室の文書には、その頃ラーオという呼び名を使うと罰せられたという記録が有る。

つまり、イサーン(及び東北地方)という呼び名は、「ラーオ」という語の代用として作られたものという事。それに応じてラーオ人のことを「イサーン人」と呼ぶようになり、同様にイサーン語、イサーン文学、イサーン料理、イサーン音楽、イサーン地方という語が使われるようになった。

歴史から見えるのはサヤーム王室が統治を強固にする為に、この地方におけるイサーンという新しい概念を創造するよう努力したこと。そしてそれは結果としてこの地方のラーオ人の民族としての自覚は薄くなっていった。イサーンのラーオ民族は自らをラーオ人でなくイサーン人であると認識するようになり、これはサヤームの人々による差別の軽減と、サヤームの人々が同胞として受け入れるのに役立った、と結んでいます。

ただ、この話はタイ王国の微妙な問題に触れる面も有るようで、著者は以下のような断り書きを添えています。
この話で極端な地方主義思想を煽る意図は無く、ラーオという語をイサーン地方のラーオ人から排除するというサヤーム国の政策がどんな理由でどのように行われたのかを述べただけである。

2008-09-25

若者の日

9月20日(土)は文化センターにて、「全国若者の日」の催しということで子供楽団が出場。

 
なんだか物心ついたばかりのようなちっちゃい子が踊っています。本人達は何をしているか分ってるのかどうなのか?という感じ。プレーワー、ソァーンガポ、タイプーカオ等、4セット程演奏。
 
  
この日の午後はアルゼンチン大使夫妻を招待して子供楽団がおもてなし。高齢ながらなかなかノリが良く、一緒になって踊っていました。なんだかいろんな人が飛び入りで踊るので我々はノンストップでがんがん演奏。なかなか楽しかったです。自分は一日中ベース担当でした。たまに弾くと指先が水ぶくれになって痛いです。
 
上の二枚の写真は先月から毎週ケーンの練習に来ている日本人Jさんに撮って頂きました。ケーンの練習は最初の段階が非常に難しいんですが、頑張っています。日本人のケーン愛好家がもっと増えると良いなぁと思います。
 
 
コーン演劇の実演も有り。この状態でクルクル回ります。器用過ぎる。

2008-09-09

サパーン・クワーイにて

9月7日(日)はN先生やA先生と共に、バンコクのサパーン・クワーイにあるマカームポムという写真ギャラリーでのミニコンサートに参加。

写真のバンドがメインのコンサート。メンバーのほとんどは写真家関係の人のようです。歌が中心ですが、人形コントとか水コップ楽団とかピンポン球楽団とか、なんか風変わりなパフォーマンスがいっぱいでした。ほんわかアットホームなアート系とでも言いましょうか。

恐ろしく狭いギャラリー。観客が目の前1メートルにぎっちりな状態は初体験です。

今回我々は2曲だけ演奏したんですが、このなんだかアート系っぽいミニコンサートに合わせてでしょうか、ちょっと風変わりな物をやりました。ピン、アカ族の笛とプータイ族の笛、ネパールの「擦ると鳴る鉄の鉢」でネーチャー系というか、これじゃなんだか訳が分りませんね。自分もよく分りませんが、自分の役目はこのネパールの鉢をひたすら擦る事でした(あれ?ネパールだったかチベットだったか、ちょっと不確か)。その鉄鉢は本来瞑想の道具なんですが、延々と擦ってたので眠くなっちゃいました。でも2曲目は普通にピン、ケーン、ウォートでイサーン音楽。こちらは普通に盛り上がったので安心。すっきり目も醒めました。

こういう狭い場所でのミニコンサートというのは初体験でしたが 、アットホームな感じがなかなか良かったと思います。

この楽器、最近よく見かけますが、吹き方がすんごい難しいんですねぇ。自分は唇がうまく振動しないのでまったく駄目です。

2008-08-24

文化庁祝賀会

21日(木)は文化センターにて、文化庁の祝賀会に子供楽団が参加。


この日は文化庁の大臣とかの要人が来るということで、子供楽団が小ホールの玄関で出迎え演奏。そろそろ来るよというので演奏を始めるも、要人一向は一瞬で通り過ぎただけでした。こういう床にべたっと座ってのんびり演奏するのも良いですね。しかもビア・チャーンの生ビールが飲み放題だったので最高です。
そのまま30分ぐらいやって、楽団はホールの中に移動。


ステージ上の大臣を祝福する儀式。お馴染みバイシースークワンと腕に紐を縛るプークケーン、何故か全てイサーン式でした。ステージ上の大臣に歌を捧げるのはシンラピンヘンチャートでもある有名歌手(名前は分りません)。歌はラム・タットと呼ばれるタイ中部の芸能でした。

この日は舞踊とか人形とかいろんな出し物がてんこ盛で、結局我々がやったのは10分足らずでしたが、ビア・チャーン飲み放題のおかげで、終わる頃には完全に出来上がっていました。満足です。

舞踊の生徒の美人な子と記念撮影するN先生。ご機嫌ですね、気持ちは分ります。後で写真を送るようにしつこく言われました。

2008-08-13

学生ポンラン楽団コンテスト

追記 8-16: タイトル付け忘れてました。

8月10日(日)と11日(月)は学生ポンラン楽団コンテストを見学。

全国から応募してきた学生による楽団をビデオ審査し、残った楽団が実演で競うという年に一度の催し物です。去年も見に行きましたが、今回も同様に国立競技場のステージで行われました。去年の一日4楽団に対して今年は一日7楽団と大幅にボリュームアップです。

写真は会場でのシルクの機織りの実演。ポンランといえば発祥地のカラシン県。カラシンといえばタイシルクですね。 カラシンのシルクは「プレーワー・カラシン」と呼ばれまして、舞踊のスタンダード・ナンバーにも同名の物が有ったりします。

コンテスト一日目は18歳以下の部。

といってもほとんどは学校単位での応募ですから、楽団によってはどう見ても中学生以下のメンバーしか居なかったりして。

写真はカラシンの楽団。半裸で踊る男は「ガップ・ケップ」と呼ばれます。これは手に持っている打ち木の名前でもあります。これを打ち鳴らしながら踊るのでそう呼ばれるようです。

こちらもカラシンの楽団。この女性の歌が凄く良かった。高校生ぐらいでしょうか。

やはり本場のカラシンですね。この日出場した7楽団中、3楽団がカラシン県から来ていました。


一日目で個人的に最も好きだったのがこのスリン県の楽団。 ポンランと言えばイサーン音楽ですが、スリンと言えばカントゥルム。演奏も全体にカントゥルム風味で、もちろんソー・カメーン(クメール胡弓)も居ます。そしてカントゥルムの曲になるとダンサーは飛び跳ね、走り回り、首を振って踊り狂います。これは霊が憑依した表現でして、最後はバタっと倒れて霊が抜けた表現で終わります。この楽団の太鼓奏者がまた凄く上手で、カントゥルム風味のリズムで観客は踊りまくってました。やはりクメール文化ですね。


そして二日目は大学生の部です。

午後1時に始まると聞いていたのに何故か3時開始。なので準備中のラムカムヘン大学の人達を訪問しました。以前大学で二日間一緒にやった人達です。ソムタムとごはんをご馳走になりました。

写真は舞台で使うバイシーを作成しているところ。ちゃんとバナナの葉っぱとロウソクで作ります。随分大きいですね。

そのラムカムヘン大学の演奏。

実はこの日は舞台裏で酒盛りになって酔っ払ってしまい、あまりちゃんと聞けませんでした。わざわざ見に行ったのにもったいないですね。

結果はなんと、そのラムカムヘン大学のポンラン楽団が優勝しちゃいました。イサーン地方の楽団を差し置いてバンコクの楽団が優勝というのは想像もしていませんでしたが、去年も準優勝だったので以前から実力は十分なんですね。何にせよ、おめでとうございます。ちゃんと見てなくてすいません。ビール3本も飲んじゃったので。

臨時に設置した祭壇でお祈りしているのはオカマさん。もはやラムカムヘン大学の名物ですね。結構美人?

2008-08-02

ウボン旅行4 村の歌い手達

今回滞在した家の近所には、ラム(語りや歌)が好きなおばあちゃん、おじいちゃんが何人も居ました。村のモーラム達と言ったところでしょうか。

自分はラムクローン等のいわゆるケーン・サイ・モーラム(ケーン一本にモーラムの歌が加わること)の経験がほとんど有りません。今回宿泊した家にはラム好きのおばあちゃん、おじいちゃん達が尋ねてきたので、この機会にたっぷり手合わせをしてもらいました。

村のモーラムなおばあちゃんとおじいちゃん。形式は一般的に聞かれる伝統的なラムクローン、ラムローンのスタイルとほぼ同じのようで、主にターン・サン、ターン・ヤーオ、トァーイの三種類です。それぞれ、以下のもの。
  • ターン・サンはメジャー調で軽快なリズム。ケーンは主にスッサネン。
  • ターン・ヤーオはマイナー調で朗々と歌い上げるもの。ケーンは主にライヤイ。
  • トァーイはマイナー調で重く強いリズムを刻むもの。ケーンはライヤイかライノーイ。
なにしろ経験が無いので最初は「教えてもらおう」というつもりだったんですが、おばあちゃんが「まぁとりあえずスッサネンな、ほれ前奏吹け」というので吹き始めると、おばあちゃん合掌してお祈りを始めます。そして最初から全力でモーラムのモードに突入してしまいました。おじいちゃんも同じく合掌して「崇高なるものを称える」ところから入るので緊張感があります。こっちは「よく分かってないのに、まずいなぁ」という感じだったんですが、ぎこちなくもやってるうちにちょっと慣れてきました。

トァーイになると、踊りだすおばあちゃん。

結局ラムの伴奏については「教えてもらう」というよりは、とにかく一緒にやって自分なりのやり方を見つけていく、という感じでしょうか。一言だけ言われたのは、「語りが始まったらちょっと音を押さえなさい」ということだけでした。実際ラムが非常に聞き取りにくくて、旋律が今どこに向かっているのか分からなくなることがしばしば有りました。単に自分のケーンの音が大きすぎたようです。

何度か練習させてもらった後の22日、お寺で行われた村民会議の場で披露。

歌うのも見るのも村人。おばあちゃん達は何人も入れ替わり立ち代りで歌います。伴奏は自分のケーン一本だけですから、わかんなくなっても止まるの禁止です(笑)。

イサーン地方の田舎なら、昔はどこの村にもモーケーンは居たものですが、今のこの村には全く居ないそうです。特に職にするほど上手な人が居たら、もっと需要のある土地に移っていってしまうのだそうで。そういう事情で、たとえ外人でもモーケーンが来たということで結構喜ばれたようです。

このときはラムが入る前に独奏でやったんですが、吹き始めた途端に喜んで奇声を上げる人とかが居ました。ケーン吹いて奇声を上げて喜ばれるなんていうのは初めての経験です。聞く機会が減ったにせよ、やはりイサーンの田舎ではまだまだケーンの音に対して血が踊るような、特別な感情が有るのかもしれません。

滞在中毎晩次々と訪れた、村の歌い手達と。

おかげでこの村での滞在は、なかなか楽しい十日間でした。よい経験だったと満足をしつつ、バンコクへ向かいました。