「ラーオという語とイサーンという語は、同じなのか違うのか --- オート」
- คำว่าลาว กับ คำว่าอีสาน เหมือนหรือต่าง 1 - เล้าข้าวศึกษา - ออต
- คำว่าลาว กับ คำว่าอีสาน เหมือนหรือต่าง 2 - เล้าข้าวศึกษา - ออต
これによると、イサーン地方に住むタイ-ラーオ族の大多数が自らを「イサーン人」と呼びますが、一方この著者のように自らを「ラーオ人」と呼ぶ人も居ます。これには理由があって、自らの人種(血筋)としての認識と、タイ王国の国民としての認識とのどちらに重きをおくかで呼び方が違う、と述べています。
この著者は、「現代のタイ-ラーオ族の民族意識は非常に薄い。それはサヤーム国の統治政策がもたらした結果だ。」と書いています。その経緯は以下の通り。(イサーンに住む人自身が上のどちらに重きをおくかで、自らをどう呼ぶか変わる。)
- 人種としての認識:ラーオ人(คนลาว)
- タイ王国の土地に住む人としての認識:イサーン人(คนอีสาน)
- タイ-ラーオ族がメコン川流域に多く移住してきた仏暦23-24世紀、その統治システムはラーンサーン王国(ล้านช้าง)のような方式(つまりラーオ式)だった。
- サヤーム国がメコン川両岸まで支配し始めた頃、サヤームの人々もまたこの民族のことを「ラーオ人」と呼んでいた。
- やがて世界的な植民地主義の影響でサヤーム国の統治が難しくなる。
- 東部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออก)
- 東北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออกเฉียงเหนือ)
- 北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายเหนือ)
- 中部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายกลาง)
その後、更に行政区が一新される。
- ラーオガーオ地方(มณฑลลาวกาว )
- ラーオ中部地方(มณฑลลาวกลาง)
- ラーオプワン地方(มณฑลลาวพวน)
- ラーオ中部地方は、ナコンラーチャシーマー(มณฑลนครราชสีมา)に変更。
- ラーオプワン地方は、北部地方(มณฑลฝ่ายเหนือ)に、更に2443年からウドーン地方(มณฑลอุดร)に変更。
- ラーオガーオ地方は、東北地方(มณฑลตะวันออกเฉียงเหนือ)に、更に2443年からイサーン地方(มณฑลอิสาน)に変更。
つまり、イサーン(及び東北地方)という呼び名は、「ラーオ」という語の代用として作られたものという事。それに応じてラーオ人のことを「イサーン人」と呼ぶようになり、同様にイサーン語、イサーン文学、イサーン料理、イサーン音楽、イサーン地方という語が使われるようになった。
歴史から見えるのはサヤーム王室が統治を強固にする為に、この地方におけるイサーンという新しい概念を創造するよう努力したこと。そしてそれは結果としてこの地方のラーオ人の民族としての自覚は薄くなっていった。イサーンのラーオ民族は自らをラーオ人でなくイサーン人であると認識するようになり、これはサヤームの人々による差別の軽減と、サヤームの人々が同胞として受け入れるのに役立った、と結んでいます。
ただ、この話はタイ王国の微妙な問題に触れる面も有るようで、著者は以下のような断り書きを添えています。
この話で極端な地方主義思想を煽る意図は無く、ラーオという語をイサーン地方のラーオ人から排除するというサヤーム国の政策がどんな理由でどのように行われたのかを述べただけである。
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