2008-09-29

「イサーン」という語

我々日本人もタイ人も、一般的にタイ東北地方のことをイサーン(อีสาน/อิสาน)、そこに住む人をイサーン人(คนอีสาน)、その地方の料理をイサーン料理(อาหารอีสาน)等と呼んでいます。この「イサーン」という語、自分はイサーン音楽をやっているので慣れ親しんだ語なんですが、時々ふと疑問に思ったことがあります。「イサーン」という語はどこから来たのか。それを説明する丁度良いページが有ったのでメモしておきます。

「ラーオという語とイサーンという語は、同じなのか違うのか --- オート」
この著者はタイ-ラーオ族(ชาติพันธุ์ไท-ลาว)の血筋のようです。メコン川の左(ラオス側)から移住してきた人々とその子孫にはいろんな民族が居て一纏めにはできないにしても、書かれている事はどの民族にもある程度は当てはまるんじゃないかと思います。

これによると、イサーン地方に住むタイ-ラーオ族の大多数が自らを「イサーン人」と呼びますが、一方この著者のように自らを「ラーオ人」と呼ぶ人も居ます。これには理由があって、自らの人種(血筋)としての認識と、タイ王国の国民としての認識とのどちらに重きをおくかで呼び方が違う、と述べています。
  • 人種としての認識:ラーオ人(คนลาว)
  • タイ王国の土地に住む人としての認識:イサーン人(คนอีสาน)
(イサーンに住む人自身が上のどちらに重きをおくかで、自らをどう呼ぶか変わる。)
この著者は、「現代のタイ-ラーオ族の民族意識は非常に薄い。それはサヤーム国の統治政策がもたらした結果だ。」と書いています。その経緯は以下の通り。
  • タイ-ラーオ族がメコン川流域に多く移住してきた仏暦23-24世紀、その統治システムはラーンサーン王国(ล้านช้าง)のような方式(つまりラーオ式)だった。
  • サヤーム国がメコン川両岸まで支配し始めた頃、サヤームの人々もまたこの民族のことを「ラーオ人」と呼んでいた。
  • やがて世界的な植民地主義の影響でサヤーム国の統治が難しくなる。
仏暦2433年、サヤームは統治方式を一新。ラーオ側の地方都市とクメール側の森林地帯を合わせて4つの郡に分ける。
  1. 東部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออก)
  2. 東北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายตะวันออกเฉียงเหนือ)
  3. 北部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายเหนือ)
  4. 中部側ラーオ地方都市(หัวเมืองลาวฝ่ายกลาง)
この時、「東北部」という語が初めて使われたが、それは現在のタイ東北地方の一部を指すだけだった。

その後、更に行政区が一新される。
  • ラーオガーオ地方(มณฑลลาวกาว )
  • ラーオ中部地方(มณฑลลาวกลาง)
  • ラーオプワン地方(มณฑลลาวพวน)
仏暦2442年、この地方の人々をラーオと呼ぶのは、この時の国の情勢においては相応しくない、という統治上の理由により、ラーオという語の使用を避けるように変更する。
  • ラーオ中部地方は、ナコンラーチャシーマー(มณฑลนครราชสีมา)に変更。
  • ラーオプワン地方は、北部地方(มณฑลฝ่ายเหนือ)に、更に2443年からウドーン地方(มณฑลอุดร)に変更。
  • ラーオガーオ地方は、東北地方(มณฑลตะวันออกเฉียงเหนือ)に、更に2443年からイサーン地方(มณฑลอิสาน)に変更。
ここでサヤーム王朝で初めてイサーンという語が使われたのが見える(西暦1900年頃)。王室の文書には、その頃ラーオという呼び名を使うと罰せられたという記録が有る。

つまり、イサーン(及び東北地方)という呼び名は、「ラーオ」という語の代用として作られたものという事。それに応じてラーオ人のことを「イサーン人」と呼ぶようになり、同様にイサーン語、イサーン文学、イサーン料理、イサーン音楽、イサーン地方という語が使われるようになった。

歴史から見えるのはサヤーム王室が統治を強固にする為に、この地方におけるイサーンという新しい概念を創造するよう努力したこと。そしてそれは結果としてこの地方のラーオ人の民族としての自覚は薄くなっていった。イサーンのラーオ民族は自らをラーオ人でなくイサーン人であると認識するようになり、これはサヤームの人々による差別の軽減と、サヤームの人々が同胞として受け入れるのに役立った、と結んでいます。

ただ、この話はタイ王国の微妙な問題に触れる面も有るようで、著者は以下のような断り書きを添えています。
この話で極端な地方主義思想を煽る意図は無く、ラーオという語をイサーン地方のラーオ人から排除するというサヤーム国の政策がどんな理由でどのように行われたのかを述べただけである。

2008-09-25

若者の日

9月20日(土)は文化センターにて、「全国若者の日」の催しということで子供楽団が出場。

 
なんだか物心ついたばかりのようなちっちゃい子が踊っています。本人達は何をしているか分ってるのかどうなのか?という感じ。プレーワー、ソァーンガポ、タイプーカオ等、4セット程演奏。
 
  
この日の午後はアルゼンチン大使夫妻を招待して子供楽団がおもてなし。高齢ながらなかなかノリが良く、一緒になって踊っていました。なんだかいろんな人が飛び入りで踊るので我々はノンストップでがんがん演奏。なかなか楽しかったです。自分は一日中ベース担当でした。たまに弾くと指先が水ぶくれになって痛いです。
 
上の二枚の写真は先月から毎週ケーンの練習に来ている日本人Jさんに撮って頂きました。ケーンの練習は最初の段階が非常に難しいんですが、頑張っています。日本人のケーン愛好家がもっと増えると良いなぁと思います。
 
 
コーン演劇の実演も有り。この状態でクルクル回ります。器用過ぎる。

2008-09-09

サパーン・クワーイにて

9月7日(日)はN先生やA先生と共に、バンコクのサパーン・クワーイにあるマカームポムという写真ギャラリーでのミニコンサートに参加。

写真のバンドがメインのコンサート。メンバーのほとんどは写真家関係の人のようです。歌が中心ですが、人形コントとか水コップ楽団とかピンポン球楽団とか、なんか風変わりなパフォーマンスがいっぱいでした。ほんわかアットホームなアート系とでも言いましょうか。

恐ろしく狭いギャラリー。観客が目の前1メートルにぎっちりな状態は初体験です。

今回我々は2曲だけ演奏したんですが、このなんだかアート系っぽいミニコンサートに合わせてでしょうか、ちょっと風変わりな物をやりました。ピン、アカ族の笛とプータイ族の笛、ネパールの「擦ると鳴る鉄の鉢」でネーチャー系というか、これじゃなんだか訳が分りませんね。自分もよく分りませんが、自分の役目はこのネパールの鉢をひたすら擦る事でした(あれ?ネパールだったかチベットだったか、ちょっと不確か)。その鉄鉢は本来瞑想の道具なんですが、延々と擦ってたので眠くなっちゃいました。でも2曲目は普通にピン、ケーン、ウォートでイサーン音楽。こちらは普通に盛り上がったので安心。すっきり目も醒めました。

こういう狭い場所でのミニコンサートというのは初体験でしたが 、アットホームな感じがなかなか良かったと思います。

この楽器、最近よく見かけますが、吹き方がすんごい難しいんですねぇ。自分は唇がうまく振動しないのでまったく駄目です。